| さ |
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| ・ザイール河 |
→コンゴ河 |
| ・酒 |
アフリカ各地には様々な種類の酒があり多様な酒文化を持っている。外来の酒(ビール、洋酒など)を除いて西アフリカで作られ飲まれてる酒は主にヤシ酒とチャパロと呼ばれる雑穀ビールである。チャパロは主にサヘル・サバナ地域で、ヤシ酒はサバナ・熱帯地域で作られる。酒は古くから各種の儀礼や祝い事、村での共同作業などの時に振舞われ地域の文化の中で重要な役割を果たしてきたがイスラム化の進行とともに伝統的な酒文化が失われつつある(イスラム化した地域でもあまり気にせず酒を飲んでいるところもある)。
他にもエジプトやチュニジアなどの北アフリカ地中海沿岸地方では古代からワイン作りが行なわれ、禁酒国家スーダン共和国にもアラキと呼ばれる蒸留酒がある。エチオピアには蜂蜜酒が、ウガンダにはバナナ酒が、南部アフリカにも伝統的な雑穀ビールがあり、瓶詰めビールや洋酒の普及にもかかわらずアフリカの各地に工業化されていない多様な手作りの酒文化が残っている。
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| ・刺し子 |
→アップリケ |
| ・サハラ |
サハラ沙漠。アフリカ大部北部を横断する形に横たわる世界最大の沙漠であり、総面積約1000万ku。「荒れ果てた地」という意味のアラビア語からサハラと呼ばれる。乾燥化以前のサハラは湿潤な土地であり、カバ、キリンなどの壁画がタッシリ=ナジェールをはじめサハラ各地に遺されている。前2000年ごろから乾燥化が始まり、現在のサハラ沙漠が形成された。
サハラというと見渡す限りの地平線に延々と連なる大砂丘群、という光景を連想する人も多いが、実際には前サハラの1〜2割の面積を占めるだけであり、残りの面積を岩石、砂礫に覆われた台地沙漠か、岩山の連なる山岳沙漠が占める。
サハラに限らず沙漠は砂の海に、ラクダは砂漠の舟とたとえられることが多い。サハラによりアラブ・地中海世界とサハラ以南のアフリカは隔てられはしたが、荒海を越え交易を行った人々がいたように、砂の海をラクダという舟でわたり、交易に従事したのがベルベル系のトゥアレグ、アラブ系諸氏族などだった。彼らの張り巡らせたサハラ縦断交易路は大げさに言えばサハラを網の目のようにおおい、サハラ以南の諸王国と、北アフリカ諸国、さらには地中海世界とを結びつけていた。
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・サハラ
縦断交易 |
トランスサハラ交易とも。主にサハラの南北間(東西の交易がなかったわけではない)、つまりサハラの南の岸であるサヘル諸国とサハラの北の地中海世界との交易を指す。サハラという砂の海によって隔てられたサハラ以南のアフリカが世界の他地域と隔絶した世界であったと一般には考えられてきたが、実はトランスサハラ交易を通じて地中海世界と活発な人的、物的交流があり、地中海世界を通してヨーロッパ世界とも結びついていた。(インド洋岸の地域およびその後背地も環インド洋貿易網の重要な一部として機能し外の世界と結びついていた。)
トランスサハラ交易の歴史を辿ることは資料文献の少なさから難しいが、ニジェール河河畔のガオなどで見つかった四頭立て馬車の岩壁画から古代ローマ時代にフェニキア人またはガラマンテス人がこの地域まで到達し,おそらく交易を行なっていたであろうことが推察される。
その後サハラの乾燥化に伴いサハラ交通の手段は馬から西アジア原産のラクダへと移っていった。7Cに始まるアラブの北アフリカ侵入の結果トランスサハラ交易の主役はアラブ人、トゥアレグなどのベルベル人(北アフリカの先住民)によるラクダキャラバンへと移り(マリ、ソンガイ帝国の時代には黒人系民族も交易に従事していた)、サヘルには交易の利益によりアフリカ史上最大規模を誇る国家がいくつも誕生し(現モーリタニア領を中心に栄えた古代ガーナ王国:7、8C〜1077/現マリ、ギニア領を中心に栄えたマリ帝国:13C?〜15C末/現マリ、ニジェール領を中心に栄えたソンガイ帝国:14C〜16C末/現チャド、ニジェール領を中心にさかえたカネム=ボルヌー帝国:9C〜19Cなど)、トンブクトゥ、ガオ(以上現マリ領)、アガデス(現ニジェール領)、クンビサレー(現モーリタニア領)、カノ(現ナイジェリア領)などの交易都市が栄えた。
北からは・繊維製品・装飾品・ガラス・馬・サハラの塩などが、南からは金・銅・奴隷などがサハラを越えて運ばれた。時代により異なるが主なルートとしてトリポリ-フェザーン(以上現リビア領)-アガデスもしくはビルマ(現ニジェール領)を経由しボルヌー(現チャド領)、もしくはカノを結ぶ東ルート、現アルジェリア領からトンブクトゥ、ガオへ至る中央ルート、現モロッコ領からトンブクトゥ、ガオへ至る東ルートがあった。
現在はラクダと自動車という交通手段の違いからルートも変わり(ラクダキャラバンは水の見つけやすい山岳沙漠を通る傾向が強く、自動車は走りやすい平地を選ぶ傾向がある)、モロッコー西サハラーモーリタニアを結ぶ東ルート、タマンラセット(アルジェリア)-トンブクトゥもしくはガオを結ぶ中央東ルート、タマンラセット-アガデス(ニジェール)を結ぶ中央ルート、セブハー(リビア)-ビルマ-アガデスを結ぶ中央東ルート、エジプトースーダン共和国を結ぶ東ルートが主に使われている。
大航海時代に始まる海上交通の発達、さらに近年の自動車の普及に伴いサハラを縦断するほど大規模なラクダキャラバンはもはや見られなくなった(小規模なラクダキャラバンはまだ各地で健在である)。主役こそ詩的なラクダキャラバンから散文的なトラックに取って代わられたとはいえ、サハラ縦断交易そのものは今日も健在であり、主に北からは物資を、南からは人を運んでいる。(以前ニジェールからアルジェリアに向かうときに乗り込んだトラックにはヨーロッパへ働きに行くという人たちでいっぱいだった。)
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・サハラの
岩壁画 |
今でこそ世界最大の砂漠として名高いサハラもかつては清流流れる緑の大地であった。氷河期にはサハラは拡大、間氷期には縮小もしくは消滅するというサイクルを繰り返し、約1万年前に最後の氷河期が終わった後、約9〜8千年前に最大の湿潤期を迎えた。しかし4.5〜4千年前頃に始まったサハラの乾燥化により、現代に至るまでサハラは拡大し続けている。
サハラ各地の山岳地帯にはこの緑のサハラの時代以来サハラに住み着いた人類の残した岩壁画、岩刻画が数多く残されている。主な遺跡はアルジェリアのタッシリ=ナジェール、リビアのフェザーン、チャドのティベスティ山地、エネディ山地、ニジェールのアイール山地,マリのイフォラ山地など。
サハラに人類が住みついた時期は不明である8千年以上前の中石器時代のものと思われる岩壁画(岩刻画)がサハラ各地の山岳地帯で見つかっている(古拙時代)。
狩猟民の時代と呼ばれる8〜6千年前の新石器時代には動物や人間を描いた彩画、刻画が多くつくられた。この時代の人物像には瘢痕装飾、仮面らしきものをかぶった様子など現在もサハラ以南の黒人系民族固有の習俗が描かれていることから、絵の作者は黒人系の民族と考えられる。
6〜4、3千年前の時代は牛の時代と呼ばれ、牛、羊などの家畜の群れ、人々の生活や戦争の様子などが描かれている。この時代の絵の作者は描かれた習俗によく似た習俗を持つサヘルの牛牧畜民フルベと考えられている。
サハラに馬が導入されたのはおよそ3千年前であり、四頭立ての二輪馬車に乗って疾駆する人物像が数多く描かれた。この時代を馬の時代と呼び、作者はガラマンテス人(現在のベルベル人の祖先)と考えられている。
サハラの乾燥化が進むにつれより乾燥に強いラクダ(ヒトコブラクダ)が西アジアから導入されたのが前200年頃であった。この時代ラクダを主題に下絵が多く描かれ、ラクダの時代と呼ばれている。絵とともに古代リビア文字(現在トゥアレグが使っているティフィナグ文字の原型)が描かれるようになった。
11以降のアラブ人とベルベル人がこの地域に共存するようになってからの絵はアラボ・ベルベル時代に区分される。
(上記のサハラ岩壁画の時代区分は木村重信氏の提唱した区分に由る)
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| ・サヘル |
サハラ沙漠の南縁地域のことを指す。アラビア語のサーヒル(岸辺)が語源。アラブ世界から見てサハラという砂の海の南の岸辺、イスラム世界の南の縁という意味でサーヒルと呼ばれた。地理、歴史でスーダンと呼ばれる地域とほぼ一致する。過去においてこの地域にはアフリカ史上最大規模の広域国家がいくつも興亡した(ガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国、カネム=ボルヌー帝国など)。
現在サハラの拡大。砂漠化の進行が問題になっているのが主としてこの地域であり、モーリタニア、セネガル、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、チャド、中央アフリカ共和国、スーダン共和国などが含まれる。もともと雨が少ない地域であり近年の異常気象の影響で何度も旱魃に見舞われている。
アラブ世界からインド洋をはさんで向こう岸に当たる東アフリカ沿岸地域もアラビア語のサヒールに由来するスワヒリという名称で呼ばれている。
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| ・サモリ帝国 |
現ギニア共和国東部のマリンケもしくはジュラの商人の家に生まれたサモリ=トゥーレ(1830年〜1900年)がニジェール河上・中流域に築いた大帝国。
若い頃は商業に従事していたサモリはその後軍人になり1881年にはニジェール河上流域の支配を確立していた。この頃からサモリはイスラムに傾倒、86年には自らアルマミを称し帝国をイスラム国家として運営することを宣言した。1880年代にはニジェール河上・中流域一帯を支配する大帝国を築いたが91年にフランス軍と衝突、敗退。東方に転進しながらフランス軍への激しい抵抗戦を繰り返した。転進を繰り返しコートジボアール、ガーナ北部に本拠地を移すが98年にフランス軍に降伏。サモリはガボンに流され同地で1900年死亡した。
フランスによる植民地化に激しい抵抗を繰り返したサモリは現在でも民族の英雄として語り継がれている。ギニア共和国の初代大統領セク=トゥーレはサモリの子孫であり彼もまたフランスの新植民地主義に抵抗。1958年にフランス共同体にとどまる事を拒否しアフリカの旧フランス植民地として最初の独立を達成した。
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| ・サラコレ |
→ソニンケ |
・サルーム
王国 |
セネガル中西部にあった(ある)セレール人の王国。15C末に建国され、一時隣国のシン王国を支配下に置くなど強勢を誇ったが1850年にフランス軍によって占領された。サルーム王国は世俗的権力を持たない王国として現在まで存続している。
ストーンサークルを含む石造構造物(多くは用途不明)を多く残した王国としても知られている。
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| ・ザンビア |
アフリカ大陸中南部の内陸国。コンゴ民主共和国、アンゴラ、ジンバブウェなどの8ヶ国と国境を接している。17Cにはバントゥー系民族の小王国がいくつも建設された。世界一の銅産出国としても有名。
主な民族はベンバ、ビサ、トンガ、ロジ、バチョクウェなど。
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| し |
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・シエラ
レオネ |
西アフリカ、ギニア湾に面した国。国名の由来は山岳地帯に響く雷鳴を聞いたポルトガル人が「獅子の山」と名づけたことによる。テムネやメンデが過去にこの地域にいくつかの王国を形成したがヨーロッパ人が来航する15C以前の歴史については不明なことが多い。
主な民族は国家のエリート層を占める帰還奴隷入植者の子孫たち、土着の民族としては、リンバ、テムネ、シェルブロ、メンデ、ヴァイなど。
メンデは彫刻に秀でた民族として世界的に知られていて、ポロ、サンデ(アフリカには珍しい女性の秘密結社)などの秘密結社の儀式に使用される仮面、彫刻はアフリカ美術の傑作のひとつといわれている。
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| ・ジェルマ |
ニジェール南西部に居住する民族。主にマリに住むソンガイとは近縁関係にある。鮮やかな色模様を織り込み、房飾りなどをつけた布(Couverture de Djerma)をつくることでも知られている。
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| ・ジェンネ |
マリ共和国ニジェール河中流域に発展した交易都市。もともとは漁労民ボゾの村であったが、地理的な好条件からおそらく12,3世紀頃に交易都市として発展し始めたと考えられている。
サハラ縦断交易の中心地トンブクトゥとはニジェール河の水運で結ばれ、トンブクトゥがサハラの北とスーダン(サヘル)の仲介役であったのに対し、ジェンネはスーダンとギニア(サヘルより南の森林地帯)の仲介の役を果たしていた。交易の中継地としての重要性からマリ、ソンガイ帝国が何度もジェンネを支配下に置こうとしたが15C末までその独立を保持し、ソンガイ帝国の支配下に組み込まれた後もかなりの自治を享受し続けた。
月曜ごとに開かれる大市には近隣の住民が大挙して押し寄せ、昔日の交易都市の賑わいを思い起こさせる。1280年頃に建てられたスーダン様式の壮大な日干し煉瓦のモスクは世界最大の泥(日干し煉瓦)のモスクとして有名である。現在モスクを含むジェンネ旧市街は世界遺産に登録されている。
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・ジェンネ
=ジェノ |
マリ共和国ニジェール河中流域に発展した交易都市ジェンネの郊外数kmの場所にある遺跡。3C半ばに建てられ14Cごろ消滅したと考えられているニジェール河の水運を利用しトンブクトゥ等との交易で栄えた。。現在のジェンネはその後継都市と考えられている。ジェンネ・ジェノ遺跡からは素焼きの人物像などが多数発掘され近隣のドゴンの彫刻と何らかの関連があるのではないかと議論されている。
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| ・刺繍 |
→アップリケ |
| ・シャンゴ |
シャンゴは雷・嵐の神、万物の誕生を司る神であり、ヴードゥー教の神々の中で最も多くの信者を持つ神の一人である。
シャンゴは生前オヨの王であったとされ、恨みをのんで死んだといわれている。人々はシャンゴの祟りを恐れ、シャンゴの霊を慰めるために彼を神として祭った。
双頭の斧はシャンゴのシンボルであり、シャンゴ像やシャンゴの社、シャンゴに関する儀式用品などにそのモチーフが用いられている。
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| ・ジュクン |
ナイジェリア東部およびカメルーン北西部に住む民族。詳しい起源は不明であるがナイジェリア東部ベヌエ川流域に王国を築いた(14C頃には建国されていたと考えられている。)。
ジュクン王国は16Cには一時ハウサ諸国のひとつザリアの支配下に入ったものの、16C末には逆にザリアを一時占領するほどの強国になっていた。その後ジュクン王国は19C初頭にソコト帝国によって滅ぼされるまで同地域に存続していた。
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| ・樹皮布 |
木の皮を薄く延ばして作った布。おそらくはアフリカで最も古くから作られていた植物性素材の布。主にイチジク属の木の皮をはぎ、砧打ちのように槌などで叩いて薄く柔らかく延ばして作る。
樹皮布の製作はギニア湾岸地域からコンゴをとおり東アフリカのウガンダ、ルワンダ、マラウィ、およびマダガスカルなどの地域で行われている(もしくは行なわれていた)。現在ではこれらの地域で樹皮布は日常品としての地位を失い、何らかの儀礼的な意味を持つ場においてのみ着用されることが多い。
日常の衣料として樹皮布を使用するのは現在ではコンゴのピグミーの一部に限られるが彼らのつくる樹皮布はその染色と文様の美しさで知られている。
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| ・ジョラ |
セネガル南部のカザマンス地方を中心にガンビア、ギニア=ビサウにも居住する農耕民。民族の起源ははっきりとしていないが、現在この地方に住んでいる他のどの民族よりも早くこの地方に定住したと考えられている。
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| ・シン王国 |
セネガル中西部にあったセレール人の王国。14C末には成立していたと考えられている。シネ王国はその初期にはジョロフ王国の属国であったが16C半ばに独立を達成した。その後王国は一時サルーム王国の属国となったりはしたものの、植民地時代にも名目的首長としての地位を維持し、セネガル独立後の1968年まで存続した。
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| す |
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| ・垂直機 |
経糸(たていと:布の長辺方向に平行に編み込まれた糸)を地面に対し垂直方向に張って布を織る織機。ラフィア布の製作に使用されるほか、ナイジェリア南部では木綿布の製作に使われることも多い。
水平機の使用が男性に限られるのに対し、垂直機による機織は男女共におこなう。しかしひとつの村や共同体で男女共に機織をおこなうということはなく、村ごとに織り手の性が決まっているという。またこのような社会では男性の織る布は販売用、女性の織る布は自家用という区別がされることが多い。
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| ・水平機 |
経糸(たていと:布の長辺方向に平行に編み込まれた糸)を地面に対し水平方向に張って布を織る織機。この織機で作られる木綿布は、織機の構造上織り幅が5〜30cm程度に制限されるため「西アフリカの細幅木綿布」として知られている。
水平機は西アフリカのほぼ全域で使用されている織機であり、その使用は男性のみがおこなうがこれに対して垂直機は使用者の性が限定されない。
地面に打ち込んだ杭から数m(時には数10m)離れた場所に置いた織機に向かい、地面と水平方向に経糸を張った水平機による機織作業は、西アフリカの町や村で現在でもよく目にすることができる。
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| ・頭上面 |
カゴや革で作った帽子の上に取り付けて使用するタイプの仮面(彫像)。大体の場合踊り手は樹皮などで作った蓑状の衣装で体を覆い、カゴや革で作った帽子状の被り物に頭上面を固定して踊る。仮面としての機能(共同体や結社の儀式に用いられ仮面をかぶった踊り手は仮面が象徴する祖霊や精霊・神と同一視される)を持つが、踊りの衣装や頭上に取り付けるための帽子などから切り離されて形状だけで見る場合は彫像のように見える(当店でも便宜上、仮面ではなく立像として分類している)。
(バガのニンバ像、バンバラのチワラなど)
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| ・スス |
主にギニア共和国沿岸地方に住む農耕民族。18Cごろにフルベ系王国の拡張に追われる形で現在の居住地に移住して来た。スス語はギニアの首都コナクリを含む沿岸地方、中部地方での商取引の際の共通言語となっている。
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| ・スーダン |
北アフリカの国スーダン共和国についてでなく、歴史、地理で言うところのスーダンについて。
アラビア語でサハラの南にある「黒人の国」を表す「ビラッド アッスーダン」から来た言葉で、アラブ世界に知られていたブラックアフリカ地域に対する呼称。おおむね現在のサヘル地域を指す(現在の国名で言うと西からセネガル、モーリタニア、マリ、コートジボアール北部、ブルキナファソ、ニジェール、ナイジェリア北部、カメルーン北部、チャド、スーダン共和国を含む)。
アフリカの地域を大雑把に表す呼称としては他に「ギニア/現在のギニア湾岸諸国に相当」、「コンゴ/中部アフリカ一帯」、「マグレブ/北アフリカ西部」などがある。
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・スーダン
共和国 |
アフリカ第一の面積を持つ北アフリカの国。国土を南北に貫き流れるナイル河はスーダン共和国南部では広大な湿地帯を形成し、北部スーダンのサハラに覆われた沙漠地帯では貴重な水源となっている。現在のスーダン共和国北部ヌビア地方には最古の黒人王国といわれるクシュ王国が栄えた。
主な民族は、北部を中心にアラブ人、南部のディンカ、ヌエル(共に黒人系)などであり、西部にも多数の黒人系の民族集団が居住する。
スーダン共和国の国名はサハラ以南のアフリカをさすアラビア語「ビラッドアッスーダン/黒人の国」に由来する。
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・スンディアタ
=ケイタ |
→ケイタ,スンディアタ |
| ・スンニ=アリ |
生年不詳〜1492年。ソンガイ帝国の建国者。スンニとは救世主を意味し、アリ=ベルまたはシとの名でも知られている。1464年頃にソンガイ地方の領主となる。この時代すでにマリ帝国は衰退し、帝国の支配下にあった各地域でそれぞれの領主が独立したり、外部からの侵入者に悩まされていた。
ソンガイ地方の領主となったアリは後に西スーダンを席巻することになる騎馬軍団を率い、まずソンガイ領に侵入を図った南方のモシ人を撃退、ドゴン、フルベの軍をバンディアガラで撃退し、1468年には1433年以来トンブクトゥを占領していたトゥアレグを追い払いトンブクトゥの支配権を確立した。1476年には7年に及ぶ包囲戦の末ジェンネを占領。ニジェール河中流全域を支配下に置いた。
その後も領土拡大、侵入者撃退の戦いに明け暮れたアリは1492年乗馬ごと川に落ち溺死した。アリの死後息子のスンニ=バルが王位を継いだがわずか2年でムハンマド=トゥーレという将軍に王位を簒奪された。
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| せ |
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| ・青銅 |
→ブロンズ |
| ・セグー王国 |
現マリ共和国中部の、ニジェール河沿いの街セグーを都として17C半ば〜19C中頃にかけて栄えたバンバラ人の王国。バンバラ帝国とも。伝承によればソンガイ帝国崩壊後の西スーダンの動乱期の中、17C初にバラマ=ンゴロとニア=ンゴロという兄弟が建てたと伝えられている。実際には17C半ばにカラディアンという王が建国したと考えられている。
1712年に王位を奪ったママリ=クリバリ(在位1712〜1755)によりセグー王国は西スーダンの強国となった。クリバリ王はマリ共和国の首都バマコからトンブクトゥにいたるニジェール河中流域を支配し(これはニジェール河の河川交通、河川交易を支配下に置いたことを意味する)セグー王国繁栄の基礎を築いた。クリバリ王との権力争いに敗れたバンバラ人の一派は北に走り、18C半ばに現在のマリからモーリタニアの地域にかけてカアルタ王国を作った。
クリバリの死後軍人によるクーデターが相次ぎ、11年のうちに4人の王が殺されたが、その後王位に就いたンゴロ=ディアラ王の統治のもと繁栄を取り戻し、1861年にトゥクロール帝国に占領されるまで西スーダンの強国として栄え続けた。1796年に王国の都セグーを訪れたイギリスの探検家マンゴ=パークはセグーの繁栄を驚きをもって讃え記している。
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| ・セヌフォ |
コートジボアール北部を中心に隣国のブルキナファソ、マリにまたがって住む農耕民族。各種の手工芸に長けた民族として有名だが特に仮面、木彫についてはアフリカを代表する名手として広く世界に名を知られている。その彫刻文化は、仮面結社と密接に結びついて発展してきた。人物をかたどった彫像、仮面には静的表現が、動物をかたどったそれには動的な表現が好んで用いられる。
またアルジェリアのタッシリ=ナジェールの岩面画の狩猟民の時代(前6000年〜前4000年頃)の壁画に描かれた仮面が現在のセヌフォの仮面に酷似しているとの指摘もある。
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| ・セネガル |
アフリカ最西端の国。北から南へサヘル‐サバンナ‐亜熱帯と気候も変化する。アフリカンポップの旗手ユッスー=ンドゥールの母国。南部の一部を除き伝統的な彫刻等はつくられない。手工芸よりも芸能が活発で歌手や音楽家の中には世界的に名を知られたものも少なくない。
ちなみにおしゃれ上手なアフリカの中にあってもセネガルの女性は「セネガルの着倒れ」といわれるほどのおしゃれ好きである。
主な民族はウォロフ、フルベ、セレール、トゥクロール、ジョラなど
セネガルの商品
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| ・セネガル河 |
全長1630km、流域面積44万kuのアフリカ第8の大河。ギニアのフータ・ジャロン山地に源を発し、ギニア、マリを流れ中・下流域ではセネガル・モーリタニアの国境をなし、セネガル北部のサン・ルイで大西洋に注ぐ、4つの国にわたる国際河川でもある。急流域や滝などがないため河口からかなりの内陸部まで船舶での航行が可能である。
過去にはガーナ、マリの古代王国、トゥクロール帝国などの興亡の舞台となってきた。ニジェール河の支流のひとつとは源が100kmと離れていないがそれぞれ逆方向に流れ河口の位置は3000km近くの距離がある。
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| ・セレール |
主にセネガル中西部に住む民族でセネガルで3番目の人口を持つ。かつてシン王国、サルーム王国という独自の王国を形成していた。もともとはフータトロ地方に居住していたが北方のベルベル王朝(アルムラビート朝)の圧迫やサハラの乾燥化に押され12,3Cに現在の居住地に移住して来た。
セネガルの初代大統領レオポール=サンゴールはセレールの出身である(名前からもわかるようにセレールにはカトリック教徒も多い)。
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| ・染色 |
現在アフリカでは様々な方法で布地を染めて多様な染め布を作り出しているが、アフリカの染色の起源は織物の起源と同じくはっきりとしない(織物と同時期に始まったのではないかと考えられている)。伝統的な染料としては植物、鉱物等の天然の染料が用いられてきた。現在では輸入綿布をつかった化学染料による染色も広くおこなわれている。
伝統的な染色技法としては西アフリカ全域で広くおこなわれている絞り染め、泥染めなどに用いられる手描き文様染め、ヨルバの藍染め布によく用いられる絣(かすり)、アシャンティの布に用いられる型押し文様染め、キャッサバのりを用いた型染め、手描き防染、ろうけつ染めなど、じつに様々な染色技法が用いられている。
西アフリカでは染色は女性の仕事であることが多いがハウサの藍染め職人組合など、染色を男性の仕事としている民族社会も存在する。
西アフリカの伝統的な染め布としてはサヘル地域の泥染め(ボゴラン・コロゴ布など)、西アフリカ全域で広くおこなわれている藍染めなどが広く知られている。
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アフリカの染め布
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| そ |
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| ・象牙 |
牙状にのびたゾウの門歯。古来ユーラシアでは装飾品の材料として珍重されてきた。アフリカは古くから象牙の供給地として知られ西・中部アフリカ産の象牙はサハラ縦断交易によって、東アフリカ産のものはインド洋交易によって外の世界へと運ばれていた。アフリカの象牙細工としてはベニン王国で宮廷美術として発達した象牙細工が有名だが、これははヨーロッパ人の交易者が争うように求めたほど高度な水準に達していた。
現在ではワシントン条約によって象牙の取引は基本的に禁止されている。アフリカでも象牙細工の技術を生かしイノシシの牙、ラクダの骨などの代替素材を用いた牙彫が盛んであるが、いまだ堂々と象牙製品が売られていることも多い。また象牙目当てのゾウの密漁が絶えず、ゾウの減少の主な原因となっている(主な密輸先は中国、日本)。
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| ・ソコト帝国 |
ナイジェリア北部ハウサランドのフルベ出身のイスラム指導者ウスマン=ダン=フォディオ(1754年〜1817年)が築いたイスラム神権国家。
ハウサ諸国におけるイスラムのあり方(従来の民俗信仰との混合)を批判しジハードを宣言したウスマンに率いられたフルベ・ハウサ軍は19C初頭にはハウサランド全域を征服。さらにはハウサランドの南に位置するジュクン王国やニジェール南部、カメルーン西部に至る地域を平定しソコト帝国(フラニ王国とも)を建国した。ウスマンは建国後すぐに息子に譲位し自身は隠遁、学究生活を送った。ソコト帝国はウスマンの息子ムハンマド=ベロの下繁栄したが19C末沿岸部から北上してきたイギリス軍に敗退。1900年にイギリス保護領下に入った。
ウスマンのジハードは18C〜19Cにかけて西スーダンを席巻した一連のフルベのジハード、イスラム国家樹立の流れの中に位置づけらるが、その中でかなりの広域を強力に支配したイスラム国家を築いたのはウスマンが初めてであり、後に相次いだマシーナ王国、エル=ハジ=ウマルのトゥクロール帝国、などフルベによるジハード、イスラム国家建設に大きな影響を与えた。
ウスマン=ダン=フォディオとはフォディオ生まれのウスマンの意味である。
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| ・ソニンケ |
自称はソニンケ。ウォロフからはサラコレ、バンバラからはマルカとも呼ばれる。セネガル東部からマリ西部に居住するマンデ系農耕民族。古代ガーナ王国を築いた民族と考えられている。ガーナ王国崩壊後、西スーダン、ギニア西部に散らばったソニンケ人たちは商業に長けた民族としても知られている。
頭に数本の垂直の角を持つ、玲羊と人面が混ざったような風貌の仮面をつくることで有名。
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| ・染め布 |
→染色 |
| ・ソンガイ |
マリ東部に居住する民族。主にニジェールに住むジェルマとは近縁関係にある。14C〜16Cに現在のマリの都市ガオを中心とし、アフリカ史上最大の版図を誇ったソンガイ帝国を築いた。ソンガイ帝国は1591年、サハラの岩塩鉱山とサハラ縦断交易の利権をめぐるモロッコ軍の侵攻により滅亡した。
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・ソンガイ
帝国 |
14C末〜16C末にかけて、現在のマリ東部の都市ガオを中心に栄えた大帝国。
9〜10Cにサハラ縦断交易の要衝ガオ近隣にすでに勢力を張っていたソンガイ人の王国はマリのマンサ=-カンカン=ムーサ皇帝の下いったんはマリ帝国に併合されたが、14C末に再び独立を奪回した。その後1460頃にソンガイの王となったスンニ=アリは南のモシを撃退し、トンブクトゥからトゥアレグをたたき出し、ジェンネを攻略し、と八面六臂の活躍で領土を拡大しソンガイ帝国の基礎を築いた。
アリの死後1494年に高級軍人であったムハンマド=トゥーレが王位を簒奪。彼がアフリカ史上最も広大な領地を統べたアスキア=ムハンマド皇帝である。アスキアはスンニ=アリの偉業を引き継ぎ、西スーダン中央部全域を支配する大帝国を築き上げた。彼の治世下でサハラ縦断交易は最盛期を迎え、帝国は空前の繁栄を謳歌した。
アスキア大帝の後数代の皇帝は国をよく治めソンガイ帝国は繁栄していたが、1580年代から内憂外患に悩まされるようになった。領内の諸民族の反乱が続いたところにサハラの岩塩鉱山とサハラ縦断交易の利権をめぐって北からモロッコ軍が侵入してきた。スーダンで無敵を誇ったソンガイ帝国の騎馬軍団も、火縄銃で武装したわずか6000人のモロッコ軍に蹴散らされ、ソンガイ帝国は滅亡した(これが銃がサハラ以南のアフリカにもたらされた最初の事件である)。
ソンガイの滅亡以後西スーダンにはサハラ縦断交易に立脚した広域国家は現れなかった。同地域に興った大国としてはウスマン=ダン=フォディオのソコト帝国(18〜19C・現ナイジェリア北部を中心としたイスラム神権国家)、エル=ハジ=ウマルのトゥクロール帝国(19C後半・現セネガル、マリ領を中心としたイスラム神権国家)、サモリ=トゥーレのサモリ帝国(19C末・現マリ、ギニア領を中心とした国家。フランスによる植民地化に徹底的に抗戦した)などがあるがいずれも性格が異なる。
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