トンブクトゥの街並み(マリ共和国) |
過去の特集を見る>> |
マリの商品を見る>>
|
マリ共和国ニジェール河大湾曲地帯(ニジェール河が北に大きく張り出して流れている地域)の北端に位置する交易都市トンブクトゥ(またはティンブクトゥ)。サハラの北と南を結ぶ隊商が行き交い、サハラ以南アフリカ最古の大学では西アフリカ最高の学者たちが研究にいそしんだ。西アフリカ史上最も繁栄した街、「黄金の都トンブクトゥ」の名は遠く中世ヨーロッパにまで鳴り響き、後年のアフリカ内陸探検の動機ともなった。
トンブクトゥ(ティンブクトゥ)の名の由来は、あるとき洪水を防ぐためにブクトゥという名の娘を人柱として井戸に沈めたという伝承に求められる。トンブクトゥ(ティンブクトゥ)とは「美しいブクトゥ」または「ブクトゥの井戸」という意味と言われ、現在もブクトゥを人柱として捧げたという井戸が博物館内に残されている(名前の由来には異説も多い)。
マリの地図を見る>>
|
マリの商品を見る>>
|
〜トンブクトゥの歴史〜
トンブクトゥはおそらく10C頃にトゥアレグのキャンプ地としてつくられたと考えられている。その後11Cにはニジェール河上流に位置する交易都市ジェンネからやってきた商人たちがトンブクトゥに市場を開き、徐々に交易都市としての体裁を整え始めた。ガーナ王国時代にはサハラ縦断交易の主要ルートは西(モロッコから現モーリタニア領のウダゴースト・ワラタを結ぶルート)にあり、トンブクトゥを通る交易ルートは本数も運ばれる品物の量も少なかった。しかし11C後半頃からガーナ王国滅亡に伴う混乱などのため、サハラ縦断交易の主要交易ルートが東に移った。このことによりトンブクトゥはニジェール河水運の拠点のひとつでもあるという地の利を生かし、サハラ縦断交易の中継地として機能し始め トンブクトゥの三大モスクのひとつサンコレモスク
た。サハラの北から運ばれてきた産物はここからニジェール河を船で西アフリカ内陸各地に運ばれていき、アフリカ各地の産品はニジェール河の水運を利用し、まずトンブクトゥに集められてからサハラを越え北に向かった。河の港と沙漠の港を持つトンブクトゥは「砂と水の出会う場所」としてサハラ交易の一大拠点として発展していった。
サハラ縦断交易は西スーダンでは別名塩金交易とも呼ばれ、サハラの塩(主にタガザ産)とサヘル以南で取れる金との交換が交易の柱であった。他にも北からは・繊維製品・装飾品・ガラス・馬などが、南からは象牙・銅・奴隷などがサハラを越えて運ばれた。西アフリカ内陸部で採掘されサハラを越えた金は膨大な量にのぼり、後述のカンカン=ムーサ皇帝の逸話とあいまって、中世ヨーロッパでは黄金の街トンブクトゥの伝説が生まれた。
一大交易都市として発展を遂げたトンブクトゥはその後長く自治を保っていたが、カンカン=ムサ皇帝の時代(14C初頭)に最盛期を迎えたマリ帝国の支配下に入った。ムサ皇帝は1324年におこなったメッカ巡礼の際に立ち寄ったカイロで莫大な量の金を湯水のようにばらまいたため、その後10年以上にわたってカイロの金相場が混乱したという逸話を残した。このためマリ帝国の名は「黄金の国」として中世ヨーロッパに伝わり、マリ帝国一の繁栄を誇ったトンブクトゥの名も「黄金の街」としてヨーロッパに知られることとなった。
ムーサ皇帝はメッカ巡礼の際アラブの学者、宗教指導者、建築家(エッサヘリなど)を連れ帰りトンブクトゥに住まわせ、数多くのモスク・大学を建立した。その以前からイスラム化が進んでいたトンブクトゥはその後西、中央スーダンの学問、イスラームの中心地としても栄えた。街にはサンコレ、シディ=ヤヒヤ、ジンゲルベリの三大モスク(それぞれが大学を併設)の他にもいくつものモスクが立ち並び、数多くの優れた学者を輩出した(時代は少し降るがアフマッド=ババ、タリーク=アル=ファッタシュの著者マフムド=カティ、タリーク=エッスーダンの著者アッサディなど)。
マリの地図を見る>>
|
マリの商品を見る>>
|
その後15Cにはいると衰えの見えてきたマリ帝国の隙を突いたトゥアレグの一派がトンブクトゥを占領したが、同世紀後半には西のガオに興ったソンガイ帝国の初代皇帝スンニ=アリによって征服された。その後ソンガイ帝国の統治下、スンニ=アリ、アスキア=ムハンマドなどの名君が続き、帝国がその広大な領土をよく統治しサハラ縦断交易ルートの安全を確保したことにより、サハラ縦断交易は最盛期をむかえ、空前の繁栄を謳歌するトンブクトゥには莫大な富がもたらされた。
しかし1591年のサード朝モロッコ軍侵攻によるソンガイ帝国滅亡、大航海時代の幕開けによるサハラ縦断交易の衰退(船で西アフリカ沿岸部との交易をすることにより、サハラを越えるイスラム商人を介さずに、西アフリカの産物が直接ヨーロッパにもたらされるようになったため、サハラ越えの交易網の地位が低下した)によってトンブクトゥの地位は低下し、以後衰退の道を辿り続けた。モロッコ人支配下のトンブクトゥに生きた学者アブドゥラマン=アッサディはガーナ、マリ、ソンガイと続いた西アフリカの栄光の歴史を記録した大著「タリーク=エッスーダン」を著した。
その知名度からよく誤解されるが、トンブクトゥはその歴史を通して一度も一国の首都になったことはない。マリ帝国の首都ははるか西方の現ギニア領にあり、ソンガイ帝国の首都はトンブクトゥの東、ガオに定められていた。「黄金の都トンブクトゥ」の伝説はヨーロッパ人の欲望と好奇心を駆り立て18,9Cには多くのヨーロッパ人探検家がトンブクトゥ到達を目指した。しかし運良くトンブクトゥまで生きてたどり着いた者が見たものは黄金の都ではなく泥で作られた質素な家が立ち並ぶ寂れた街だったという。
トンブクトゥの三大モスクのひとつジンゲルベリモスク
ヨーロッパ人として初めてトンブクトゥに辿り着いたのは一説にはスコットランド人探検家マンゴ=パーク(1795年と1805年の2回にわたりニジェール河を踏査。1806年、ニジェール河探検中に現ナイジェリアにて死亡)といわれているが、確証はない。1826年にはイギリス人のゴードン=レインがトンブクトゥに到達したが帰路に殺害された。トンブクトゥに辿り着き、生きて還った最初のヨーロッパ人はフランスのルネ=カイエであり1828年のことであった。
モロッコ人支配者がもはやトンブクトゥのコントロールを失った18C末以降トンブクトゥはトゥアレグの支配下に入ったり、フルベ人勢力の勢力下に入ったり、トゥクロール帝国の版図に入ったりしたが最終的には19C末にフランス植民地となった。その後1960年にマリ共和国が独立。トンブクトゥもマリ領となった。
現在のトンブクトゥは砂漠化の進行により砂に埋もれかかった小さな町(主な住民はソンガイ人・トゥアレグ・アラブ人など)であるが、その知名度を利用して観光地化がはかられている。中世にに建立された三大モスクが現存し、また乾季には現在まで続く塩のキャラバン(北に750q離れたタウデニからラクダキャラバンで岩塩を運んでくる)を見ることができる。
マリの地図を見る>> |
マリの商品を見る>>
|
〜マリの文化・工芸〜
豊かな歴史と伝統を誇るマリはまたアフリカ屈指の芸術・工芸大国でもある。イスラム化の歴史が新しいことも手伝い、マリ各地には民族固有の伝統文化が色濃く残り、そのことが伝統工芸文化の豊かさにも反映されている。
マリ工芸の代表はなんといってもその華やかな木彫文化である。ドゴン、バンバラ、マリンケ、セヌフォなどその仮面・木彫文化で世界に名を知られた民族が名を連ね、特にドゴンの仮面、バンバラのチワラはマリのみならずアフリカを代表する彫刻として名高い。マリの諸民族の彫刻の特徴は、スーダン様式とも呼ばれる直線的、抽象的な造形と、堅牢、力強さと哲学的思索を感じさせる表現にある。幾多の大国が興亡を繰り返してきたマリであるが宮廷美術は発達せず、これらの彫刻はもっぱら民間の需要に応える形で、鍛冶兼業の彫り師などによって作られてきた。
マリの工芸を語る上ではずせないのがボゴラン(泥染め)、藍染めなどの布の数々である。伝統的な手織りの細幅木綿布を天然の染料を用い、伝統的な文様に染め抜いたボゴラン、藍染め布はアフリカ工芸の トンブクトゥのかご細工専門店。中央奥には黄金色のかご編みアクセサリーが見える。
代表格として広く世界に知られている。またマリ中部、東部でつくられる派手な縞模様の手織り布、牛牧民フルベの作る色鮮やかな市松模様の羊毛布、木綿布、砂漠の民トゥアレグの作る毛布など、マリでは様々な伝統的な布がつくられている。さらにはマリのバザン(砧打ちの布)は室の高さで知られ近隣諸国にも大量に輸出されているほか、近年はアフリカの風景や日々の暮らしなどを描いたろうけつ染めの布が多く作られ、土産品として人気を博している。
トンブクトゥではトゥアレグ・アラブ人の金属工芸、皮革工芸などが盛んである。また光沢のある黄金色に染めた植物繊維を基調としたかご細工もよく作られている。この黄金色のバスケタリーでアクセサリーも作っているが、一説によるとこれはトンブクトゥの富を略奪に来た支配者に対し、「ここには金のアクセサリーなんかありません。金色に染めたかご編みのアクセサリーを金と見間違えたんじゃないですか。」と言うためにつくり始められたとも言われている。
|
〜豊かな歴史と伝統文化に彩られた国マリ。西アフリカ随一の
芸術・工芸大国からやって来た品々の数々をお楽しみ下さい〜
マリの商品を見る>>
|