| ま |
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| ・マウ=リサ |
ヴードゥー教ーの至高神。ナナ=ブルクと呼ばれる原初の神から生まれ世界を創造した。マウという女性神とリサという男性神の双子の神であるといわれている。また一説には両性具有であるとも言われている。いずれにせよ創造神として男女両性の特徴を備えているものと考えられる。
マウ=リサは至高神であり、ヴードゥーの神々はマウ=リサの子供、孫、子孫である。これらの神々はそれぞれの一つ、またはいくつかの事柄を司り複雑な神話体系を構成している。
マウ=リサはヴードゥーの主神といっていい神格ではあるものの、人々の信仰の対象は日常の事柄にかかわる神々に集中していて、マウ=リサ自身が祭祀の対象になることはあまりない。
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| ・マコンデ |
タンザニア南東部、モザンビーク北部に居住する民族。バントゥー系の言語を話す。伝統的な木彫製作も行ってきたがマコンデの名を世界的に知らしめたのは、いわゆるマコンデ彫刻の名で知られる木彫、1950年代に始まった細長い線を多用した抽象的、現代的な様式の木彫である。
またアフリカの現代画家の旗手の一人であるジョージ=リランガ(タンザニア)もマコンデの出身である。
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| ・マグレブ |
北アフリカ西部をさす言葉。マグリブとも。現国名で言えば、西からモロッコ(西サハラ:モロッコが国土の大部分を実効支配)、アルジェリア、チュニジアの三(四)ヶ国を指す(モーリタニアとリビアを入れることもある)。マグレブ(マグリブ)とはアラビア語で「日の没するところ」の意であり、アラブ世界の西端である同地域をこう呼ぶ。日本でモロッコとして知られている国の正式名称はアル・マムラカ-アル・マグリビーヤ、つまりマグレブ王国という。
アフリカの地域を大雑把に表す呼称としては他に「スーダン/サヘル地域一帯に相当」、「ギニア/現在のギニア湾岸諸国に相当」、「コンゴ/中部アフリカ一帯」などがある。
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| ・マサイ |
ケニア・タンザニア両国にまたがる広大なサバンナで、牛とともに生きる牧畜民。畜産品(家畜の肉、乳、血)を主食とする。。長身痩躯、赤銅色の肌に赤い衣を纏い双頭の槍を持った「草原の戦士マサイ」の名は日本でもよく知られている。
マサイの共同体は少年・青年組(戦士階級)・長老の三つの年齢組織によって構成されている。マサイの生活を支えている牛牧は主として青年組の仕事であり、彼らは村を離れ青年組だけの集落を作って暮らしている。またマサイの戦士(モラン)としてよく写真などに写っているのもこの年齢組の青年たちであり、家畜を守るためにライオンなどの猛獣と戦うことや、他民族との戦争なども彼らの仕事である(あった)。
マサイの男は槍一本でライオンを仕留めてはじめて一人前の戦士として認められるという。近隣民族にも同じような習慣を持つ民族がいるが、彼らの場合、ライオンが見つからなかった時はマサイを一人殺せば、ライオンを仕留めたのと同じ名誉を受けることが出来たという。物騒な話ではあるが、ライオンと同等視されるほどマサイの勇猛さが近隣に畏れられていたことを示すエピソードである。
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・マシーナ
王国 |
1818年〜1862年にかけてフルベのジハードによりニジェール河中流域に建てられてイスラム国家。ウスマン=ダン=フォディオのジハード(→ソコト帝国参照)に触発されたフルベのイスラム指導者セク=アマドゥが1818年セグー王国に対しジハードを宣言。瞬く間にジェンネを攻略、1854年にはトンブクトゥをも勢力下に置いた。同年にセク=アマドゥは死去。息子が跡を継いだが、1862年近縁のトゥクロール人の帝国に攻め滅ぼされた。
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| ・マスク |
→仮面 |
| ・マダガスカル |
南部アフリカモザンビークの東沖、インド洋に浮かぶ島国。マダガスカル島は島として世界第四位の大きさを持地、独特の気候風土、独自の進化を遂げた生態系などから「第七の大陸」とも呼ばれる。
10C以降大小さまざまな王国が興亡し最終的にメリナ王国によってマダガスカルはほぼ統一された。19C末にフランス植民地となり、1960年に独立。
10C頃に始まるアジア系(マレー・インドネシア系)民族のマダガスカル移住、それに続くアラブ系、アフリカ(黒人)系の民族の移住、それらの民族の混交によってマダガスカルはアフリカのほかの地域とは異なる民族構成、文化を作り上げてきた。
主な民族はメリナ、タナラ、ベチレオ、サカラバなど。マダガスカルでは木彫製作も盛んであり、アジアとアフリカの交じり合った豊かな工芸文化を持っている。
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・ママリ=
クリバリ |
1698?〜1755年。ビトン(命令者)=クリバリとも呼ばれる。現マリ共和国中部の都市セグーを中心に18C初頭から19C中頃にかけて栄えたセグー王国(バンバラ帝国)の実質上の建国者(在位1712〜1755)。
17C中頃にセグーを中心として周辺を支配したバンバラ人の王カラディアンの曾孫であるママリは曽祖父の死後崩壊したバンバラ王国を若くして再興。1712年に少数の部下と共に自立を宣言したママリはその後すぐにセグーを支配下に置きさらに周辺地域へと王国を広げ、1730年ごろには東方の王国コングの侵攻をはねのけ、セグー王国の基礎を築いた。
ママリはソンガイ帝国の軍制に倣い戦争捕虜からなる常備軍を設け、強力な陸軍とニジェール河を支配するカヌー水軍を組織した。この強力な軍事力によってママリはソニンケ人やフルベ人、モシ王国など周辺諸国との戦争に打ち勝つことができたが、それは同時に軍人に強い権力を与えることになり、1755年の彼の死後セグー王国ではクーデターが相次ぎ、彼の後継者(息子)は殺されクリバリ家の王統は途絶えた。
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| ・マミワタ |
コートジボアールからナイジェリアまでギニア湾岸地域で広く信仰されている人頭魚身の水・海の女神。蛇を伴って描かれることが多い。水に関すること以外にも商売繁盛などの神でもある。
ベナン、ナイジェリア、トーゴなどのヴゥードゥー信仰が盛んな地ではヴードゥーの神格の一人とされている。ニジェールにおけるマミワタは人頭蛇身、ニジェール河のジーニー(ジン:イスラム教の魔神・精霊)であるといわれている。
マミワタ信仰は19C末〜20C初頭頃にギニア湾沿岸地域に興り各地に浸透していった。マミワタの語源は英語のMammy Waterであるとも言われている。
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| ・マラウィ |
アフリカ南部、マラウィ湖の西岸に位置し、ザンビア、タンザニア、モザンビークに囲まれた内陸国。
15,6Cにこの地にマラヴィ(マラビ)王国が興り栄えたが、19C末にはイギリス保護領となりイギリス領ニヤサランドとなった。第二次大戦後南北ローデシア(現ジンバブウェ・ザンビア)とあわせローデシア・ニヤサランド連邦(白人政権)となるが64年にはアフリカ人主導のマラウィ共和国(共和制は66年から)として分離独立を果たした。
住民はほとんどがバントゥー系であり主な民族としてチェワ、ツォンガ、チポカ、ヤオなどがあげられる。
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| ・マラウィ湖 |
南部アフリカのマラウィ・タンザニア・モザンビークの国境地帯に位置する湖。南北に細長く面積は約3万ku。アフリカ第三位の大湖である。流出河川は湖の南端から流れ出るシーレ川(ザンベジ河の支流)。
アフリカ大地溝帯のほぼ南端に位置し、地溝帯が東西に広がるにつれて形成された陥没湖であるため南北に細長く(南北570km・東西60km)、かつ水深も深い(最大深度約700m)。魚類が豊富であり内水面漁業が盛ん。
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| ・マラヴィ王国 |
マラビ王国、マラウィ王国とも。16Cごろ現マラウィ領を中心に築かれたバントゥー系民族による王国。17C頃が最盛期であり、その後内部分裂、周辺民族の侵攻などにさらされ弱体化していった。
アラブ人や近隣の民族ヤオによる奴隷狩り、南部からのズールー人の侵攻に加え、ポルトガル、イギリスなどヨーロッパ勢力の脅威にも直面したマラヴィ王国は、1891年イギリス支配下に入り、イギリス領ニヤサランドとなった。
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| ・マリ共和国 |
西アフリカ内陸に位置する国。国土の北半分はサハラ沙漠に占められ、人口は南部のサヘル地帯およびニジェール河流域に集中している。古代ガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国などサハラ縦断交易に立脚した大帝国、植民地化への抵抗の象徴とも言えるサモリ帝国、トゥクロール帝国など西アフリカの歴史を彩るいくつもの大国家が興亡してきたアフリカ史の中で重要な位置を占める国である。
ドゴンの住むバンディアガラ、ジェンネの大モスク、黄金の都トンブクトゥ、豊かな伝統音楽の世界などを抱えた西アフリカ観光の中心地でもあリ、バンバラ、マリンケ、ドゴン、セヌフォなど彫刻に長けた民族として世界的に名を知られた民族が多く住む芸術・工芸大国でもある。
主な民族はバンバラ等マンデ系諸民族、フルベ、、ソンガイ、トゥアレグなど。国民の7割ほどがイスラムを信仰している。
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| ・マリ帝国 |
13C?〜15C末にかけて現在のマリ共和国、ギニアの版図を中心に繁栄したマリンケなどマンデ系民族の帝国。豊富に取れる金をもとでに、サハラ縦断交易により繁栄した。
マリ帝国はもともとガーナ王国の辺境に当たる現ギニア北東部ニアニ、カンガバを領土とする小王国であリ、ガーナ王国の宗主権下にあった。マリ王国の起源ははっきりとはしないがマリがアフリカ史を代表する大帝国となる数世紀前にはすでに成立していたと思われる。伝承によればマリ王家=ケイタ家は預言者ムハンマド(イスラムの創始者)の教友であり、初代ムアッジン(礼拝の呼びかけ=アザーンをおこなう人)であり、エチオピア出身の黒人奴隷の子孫であるビラール・ビン=ラバーフの子孫であるという。
ガーナ王国崩壊後の動乱の時代を経て、ガーナ王国の旧領を支配したのはテクルールの王スマングルであったが暴政をしいたため国情は不安定であった。スマングルの支配下にあったカンガバの王スンディアタ=ケイタは、キリナの戦いにおいてスマングルを破りガーナ王国の旧領の支配権を確立した。スンディアタが王位についた1230年頃から彼の国は「王の住まう所」を意味するマリと呼ばれるようになった(マリにはカバの意味もあリ、マリ王家ケイタ一族のトーテムはカバである)。
スンディアタの後継者たちはさらに領土を拡張し、アフリカ史上最も有名な大帝国を築き上げた(二代皇帝マンサ=ウリの死後10数年間混乱が続いたがマンサ=サクラの代に国力を回復した)。
マリの繁栄は1310年頃に即位したマンサ=-カンカン=ムーサの治世に最盛期を迎える。カンカン=ムーサはサハラ縦断交易ルート、サヘルの交易都市、南の森林地帯の金産地を掌握し広大な領土の隅々まで皇帝の支配をいきわたらせた。マリ帝国の富を示すエピソードとして、マンサ=ムーサ(カンカン=ムーサ)王が、メッカ巡礼の途中立ち寄ったカイロ(エジプト)で湯水のように金をばらまき、そのためカイロの金相場が何年にもわたって混乱したというものがある。
帝国の中心地(首都、王都ではない)トンブクトゥにはサハラ以南最古といわれる大学が創立され、文化、経済の中心地として黄金の都とたたえられた。1360年頃からマリの繁栄に陰りが見え始める。暗君、暴君が数代続き、15Cに入るとガオのソンガイ人の反乱,トゥアレグのトンブクトゥ攻略、セネガンビアの反乱、モシの反乱と、内憂外患が続き、領土の大半を失い16Cにはガオに起こったソンガイ帝国の一地方領主となっていた。
アラブ人が伝えたマリ帝国の富と繁栄は遠くヨーロッパにまで鳴り響き、19Cの西アフリカ内陸探検の動機のひとつとなった。マリ帝国の創始者といわれるスンディアタ=ケイタの伝説は、現在でもギニア、マリなどのマンデ系民族の間で語り継がれている。
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| ・マリンケ |
主にギニア共和国、マリ、コートジボアール、ガンビアなどに住むマンデ系民族。マンディンカ、マンディンゴとも呼ばれる。ギニアでは最多数を占める。マリ帝国の始祖スンディアタ=ケイタはマリンケの出身であり、現在もギニア、マリ、コートジボアールにはケイタ姓を持つ人々がたくさんいる。
大多数のマリンケ人はムスリムであるが民族文化もある程度保持されていて儀式用の仮面(特に玲羊と人の要素が混ざり合った5〜7本の角を持つ仮面)などがよく知られている。彫刻の特徴としてはバンバラのものと共通するものが多く、直線的、かつ厳しい印象の彫刻が多い。
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| ・マリンディ |
ケニア南部沿岸の交易港。古くからインド洋交易網の一大拠点として発展してきた。貿易をめぐり対立していたモンバサ(100kmほど南にある交易港)を牽制するため、15C末にインド洋に進出してきたポルトガルと友好関係を築くが、後にポルトガルがモンバサに拠点を移したこと、内陸部のオロモ人からの襲撃などで衰退していった。
現在ではモンバサとともにケニアの主要な港としての地位を取り戻している。15C初頭に、明(中国)の永楽帝に派遣された鄭和の艦隊が訪れたことでも知られている。
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| ・マングベトゥ |
おもにコンゴ民主共和国北東部に居住する民族。ナイル-サハラ語族に属する言語を持つ。18〜19C頃に現スーダン共和国方面から同地域に移住してきたと考えられている。19C初頭?に同地域に王国を建国したが1880年代に入り北からやって来たアラブ人奴隷商勢力によって征服された。
マングベトゥ王国では宮廷美術が発達し、祖先像のほかに美しい彫刻を施した独特の造形(人の形を取り入れたものが多い)の実用品、いす、コップ、楽器などが作れら、特に楽器類はアフリカ彫刻の中でも最も美しいものの一つに数えられている。
かつてマングベトゥには幼児のころから頭を圧迫頭蓋骨を縦長に変形させるという習慣があり、その特徴的な頭の形は彼らの彫刻作品に顕著にあらわれている。
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| ・マンサ=ウリ |
マリ帝国の建国者スンディアタ=ケイタの唯一の息子であり二代皇帝。スンディアタの死後(1255年)、ウリが若すぎるのでおじが王位に就こうとしたが、ウリは実力行使によりマリ帝国第二代の王位についた。
王位についたウリはマリ帝国の領土を拡大、また内政にも力を注ぎこの時代マリ領内の農業生産は著しく増加した。メッカ巡礼から帰国後まもなく死亡した(1270年)。
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・マンサ・
カンカン=
ムサ |
マリ帝国黄金期の皇帝。おそらくサハラ以南のアフリカ史上最も名を知られた君主。在位1312頃〜1337。マリ帝国南部の金産地、ニジェール河流域、サハラ交易路の支配を強化し、マリ帝国の版図を西はテクルール、東はガオを超えさらに遠方のハウサ諸国との境まで拡大した。
1324年におこなったメッカ巡礼の際に立ち寄ったカイロで莫大な量の金を湯水のようにばらまいたため、その後10年以上にわたってカイロの金相場が混乱したという逸話を残した。巡礼の帰途にムサがアラブ世界から連れてきたイスラム学者たちによってトンブクトゥは西スーダン一の学術都市としても知られるようになった。
ムサの治世はマリ帝国の歴史の中でも最もよく国が治まったといわれていて、彼の死後10年以上経ってからマリ帝国を訪問した大旅行者イブン=バットゥータは「国のいたるところまで完全に平和で、旅行の際、護衛の必要はまったくなかった。」と記している。
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・マンサ=
サクラ |
マリ帝国第六代皇帝。奴隷として生まれ後に解放されたサクラはマリ帝国の建国者スンディアタ=ケイタの将軍として頭角をあらわし、マンサ=ウリの死後後継者争いで国が乱れた10数年間に力を蓄え、1285年に王座を奪った。1300年メッカ巡礼の途中、現ジブティのダナキル沙漠にて盗賊に襲われ殺害された。
サクラの統治のもとマリは国力を取り戻し、再び領土を拡張。後のマンサ=ムサ王(在位1312〜1337年)によるマリ帝国最盛期の基礎を築いた。
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・マンダラ
王国 |
15C末〜19C末間で現カメルーン北部・ナイジェリア北東部国境に広がるマンダラ山地を中心にして栄えた王国。
18C初頭にイスラム国家となり18C末には北方の大国カネム=ボルヌー帝国を破り全盛期を現出した。しかし19C初頭からフルベのジハード勢力の侵攻をうけ、19C末にフルベの支配下に入った。
その後ドイツ植民地、フランス植民地時代を経て1960年のカメルーン独立後の現在もマンダラ王国は儀礼的存在として存続している。
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| ・マンディンカ |
→マリンケ |
| ・マンディンゴ |
→マリンケ |
・マンデ系
諸民族 |
マンディンカとも。マンデ系言語を話す民族の総称。西アフリカ内陸部西部(セネガル、ガンビア、マリ、モーリタニア、ギニア、ギニア=ビサウ、ブルキナファソ、シエラレオネ、リベリア、コートジボアールなど)に広く居住する。バンバラ、マリンケ、ミニャンカ、ソニンケ、デュラなどがマンデ系民族に含まれる主な民族であり、言語、文化にある程度の共通性が見られる。
マンデ系民族が樹立した国としてはガーナ王国、マリ帝国、バンバラ帝国、サモリ帝国などが挙げられる。
マンデ系諸民族の中でもバンバラ、ソニンケ、マリンケの彫刻、特に仮面には、細長い顔、長い鼻、落ち窪んだ目、直線的な風貌、哲学的な表情、真鍮版による装飾などかなりの共通点が認められる。
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| ・マンビラ |
ナイジェリア・カメルーン国境地帯に居住する農耕牧畜民。非常に抽象化されたデザインの動物の仮面をつくることでも知られているがマンビラの彫刻の特徴といえば逆三角形の顔をし、あごを突き出すようなポーズをとった独特の彫像だろう。彫像の頭には髪の毛をあらわす木釘がいくつも打ち込まれ、顔に手を当てたポーズの彫像も多く見られる。
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| み |
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| ・緑のサハラ |
現在でこそ世界最大の沙漠として知られるサハラであるが数万年単位の時間の流れの中では乾燥化、温暖湿潤化を繰り返してきた。2万年〜1万1000年前の時代にはサハラは最大に拡大しサハラの南限は現在よりも数百q南にあった。
緑のサハラと呼ばれる時代は一般的には1万1000年前のサハラの湿潤化が始まった時期から乾燥化が始まった4000年前までのサハラが緑に覆われていた時代をさす。7500年〜7000年前に一時サハラが乾燥化した時期があったものの、この時代のサハラの南限はアルジェリア中部まで北上し、現在サハラに覆われている地域の大部分は草木の繁る水の豊かな土地であり、ゾウやキリン、サイなどの大型獣が多数生息していた。
狩猟採集生活を送っていた初期人類にとって温暖湿潤なサハラはまさに揺籃の地であった。現在は沙漠のど真ん中にあるタッシリ=ナジェールなどの山岳地帯にはこの時期の人類の描いた岩面画が多数残されている。
4000年前頃に始まったサハラの乾燥化は現在まで続き、近年では地球温暖化、地域人口増加による燃料用の樹木のの過剰伐採などの人為的な要因によるサハラの拡大(サヘルの沙漠化)が大きな問題となっている。
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| ・ミナ |
トーゴ南部に居住する農耕民族。エウェ語系の言語を話す。もともとはガーナの沿岸地方に住んでいたらしいがヨーロッパ人がトーゴ沿岸で交易(奴隷貿易)を始めた16C頃にはすでにこの地域に居住していて、ヨーロッパ人との交易を担った。
現在も商業・貿易に従事するものが多く、トーゴ経済界に大きな勢力を持っている。現在ミナはエウェ、カブレと並びトーゴで最大の勢力を持つ民族のひとつであり、ミナ語はエウェ語とともにトーゴ南部の共通言語となっている。
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・南アフリカ
共和国 |
アフリカ最南端に位置する国。温帯から乾燥帯に位置する。この地域の先住民はコイ・サン系の民族であったが15C以降バントゥー系民族が北から移住してきた。17Cからはヨーロッパ人(オランダ系が主流=ボーア人)の入植が始まり、アフリカ人、ボーア人、イギリスの三つの勢力が相争い、最終的にはボーア戦争を経てイギリス連邦下南アフリカ連邦が成立した。第二次大戦後人種差別政策を強めた南アフリカは1961年イギリス連邦を脱退(南アフリカ共和国成立)、国際的な非難の中91年までこの政策を続けた。
94年に全国民が参加して行われた制憲議会選挙の結果ネルソン=マンデラ率いるANC(アフリカ人民会議)が与党となり、国際社会への復帰、アフリカ統一機構への加盟を果たした。
豊かな鉱産資源(金・ダイヤモンドなど)を抱えるサハラ以南アフリカ一の経済大国であるが、貧富の格差の拡大、世界最悪レベルの凶悪犯罪発生率、エイズ禍など深刻な問題を抱えている。
主な民族はズールー、コーサ、ソト、ツワナ、先住民であるコイ・サン、ボーア人(オランダ系)、アジア系住民など。ズールー、コーサはのシードビーズを使った細工物で有名である。
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| む |
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| ・ムーア |
マグレブ諸国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア?)、およびモーリタニア、マリ、ニジェールに住むアラブ系遊牧民の総称。アラビア半島から始まったイスラームの拡大に伴い移住してきた。アラブ世界から持ち込んだ高度な工芸技術を持つ。
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| ・ムムイェ |
ナイジェリア北東部カメルーンとの国境地帯に住む農耕民。ムムイェの居住地域は外界からのアクセスが困難であったため1950年代末頃まで比較的外部との接触が少なかった。
ムムイェはイァガラガナと呼ばれる彫像を作ることでも知られているが、その彫像は非常に細長くデフォルメされた人像であり、ムムイェの宗教生活、精神世界の中で多くの役割を果たしている。
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・ムラービト
朝 |
11C半ばに現在のモロッコを中心としてベルベル系サンハジャ人の起こした王国。最盛期には現モーリタニア北部、現アルジェリア北西部、イベリア半島南部を支配下に置いた。
11C半ばにサンハジャ人イスラム教徒たちがセネガル河の中州の島に修道院を築き、底で修道生活を送る修行僧達はムラビトゥーンと呼ばれた。この修道士たちが中核となり興った国家なのでムラービト朝と呼ばれている。
モロッコのほぼ全土を支配下に置いたムラービト朝は南のガーナ王国に兵を向け、結果として西アフリカ最古の大規模国家ガーナ王国は1070年代後半に滅亡した。
1147年ムワヒッド朝により滅亡。
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・ムーリ
ード派 |
セネガル中部の町トゥーバに本拠地を置くセネガル独自のイスラム教団であり、セネガルの宗教界で最も力のある教団である。1883年にアマドゥ=バンバによって設立された。
セネガルの政治経済に絶大な影響力を持ち、教団の聖地トゥーバは教団によって治められ、警察や軍隊でも勝手に入ることができない。
セネガルに行ったことのある人なら一度はド派手なパッチワークの服にドレッドロックという格好をしたムーリード派の托鉢僧「バイファル」の姿を目にしたことがあるだろう。
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| め |
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| ・メナカ |
ガオから東に約250q、マリ共和国の東の端に位置する町。主な住民はトゥアレグ、ウォダーベ、ソンガイなどである。
1975年、メナカの近くで日本人の遺体が発見された。上温湯隆氏(享年22歳)、モーリタニアのヌアクショットからスーダンのポートスーダンまで、人類初のラクダによる単独サハラ横断行7000qの道半ばにしてなくなった彼の手記は、死後『サハラに死す』という本にまとめられ、多くの日本人サハラ探検者・旅行者を生み出した(私も『サハラに死す』だけが原因ではないがやはりそれに触発されサハラに行ったクチ)。
現在メナカの町外れに上温湯氏の記念碑が建てられている。
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| ・メロエ |
現スーダン共和国北部の都市アトバラの付近に存在した古代都市。前6Cの中ごろからは当時現スーダン領を中心に栄えていた古代王国クシュの首都となった(この時代の王国をメロエ王国・王朝と呼ぶこともある)。
ナイル河とアトバラ河の合流地点に位置するメロエは比較的降水が多い、交易ルート上に位置していた、などの条件に恵まれ大いに繁栄し、エジプト文明の影響を受けたピラミッド、神殿などの建造物が立ち並び、メロエ文明とも言うべき独自の文明が発展した。それらの建造物、神像などの多くはいまだ未発掘のまま沙漠に眠っている。
またメロエは製鉄の街でもあり、大規模な製鉄所の遺構が発掘されている。一説によるとサハラ以南のアフリカの製鉄はこのメロエから伝播したとも言われているが、アフリカ各地での独自発生説もあり定説とはなっていない。
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| ・メンデ |
シエラレオネ東部および南部に居住するマンデ系農耕民。シエラレオネで多数派を占める民族のひとつであり、北のサヘル地域から数百年前に移住してきたと考えられている。
メンデは彫刻に秀でた民族として世界的に知られていて、ポロ、サンデ(アフリカには珍しい女性の秘密結社)などの秘密結社の儀式に使用される仮面、彫刻はアフリカ美術の傑作のひとつといわれている。
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| も |
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| ・モザンビーク |
南部アフリカ東岸、インド洋に面した国。沿岸部には平野が発達し、内陸部は高原、山岳地帯となっていて、国土はおおむねサバンナ性気候帯に覆われている。
この地域の先住民はサン系の人々であったが7C以降バントゥー系民族が南下、移住してきた。同国南部は11Cからはジンバブウェを中心として栄えたモノモタパ王国、ロズウィ王国の版図となった。
17C頃からポルトガル人の入植が進み19C末には「公式」にポルトガル植民地となった。植民地支配は多数のアフリカ諸国が独立を達成した1960年代以降も続き、凄惨な独立闘争の末1975年に独立を達成した。
主な民族はマクア・ロムウェ、マコンデ、ショナ、ツォンガなど。マコンデはその彫刻の腕で、ツォンガはシードビーズ細工の腕前で広く知られている。
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| ・モシ |
おもにブルキナファソ中央部に住む同国の最大民族。ボルタ語群(グル語派)に属する言語を話す。15世紀から現在まで続くモシ王国を作った。王国の祖とされている女戦士にして女王であるYennenga(イェネンガ)の名前は首都ワガドゥグの目抜き通りに冠されてる。近隣の(モシ王国時代に支配していた)ドゴンやグルンシに影響を受けた仮面、彫像を製作する。
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| ・モシ王国 |
15C頃から現ブルキナファソ領を中心として形成されたモシ民族による国家群。
現ガーナ共和国北部から(伝承によるとイェネンガという勇猛な女戦士に率いられた)騎馬軍団をともない北上してきた民族が先住農耕民を征服し作り上げた。征服の過程で先住民との混合が進み現在のモシ民族が形成されたと考えられている。モシ王は前述のイェネンガという女王の息子ウェドラゴの子孫といわれている。
モシ王国は当時強勢を誇ったマリ、ソンガイ帝国に服従することはなく、しばしば両帝国の南縁を侵し、時にはトンブクトゥを占領したりと、、両帝国の悩みの種であった。また19Cのフルベ人のジハードの際にも頑強に抵抗し独立を守り続けた。
モシ王国は王の権威の下に階層的な支配構造を持ち、19C末にフランス植民地軍に占領されるまで同地域の強国として繁栄した。現在も王国はブルキナファソ共和国内に存続していて、世俗権を持たないもののモシ国王が首都ワガドゥグの宮殿に住んでいる。
マンデ系社会のグリオと同様文字を持たないモシ社会の中での音楽家は歴史家としての役割も果たし、宮廷楽士によって伝えられてきた王国の伝承はモシ王国の歴史を研究する上で重要な史料となっている。またモシ社会では楽器の演奏による言語伝達手段(主に太鼓によるためドラムランゲージとも呼ばれる)が発達し、かなり複雑なメッセージでも太鼓の音によって(早朝などは)10km四方に伝えることができるという。
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| ・文字 |
一般にサハラ以南のアフリカ(いわゆるブラックアフリカ)は無文字社会であったといわれている。
サハラ以北(いわゆるホワイトアフリカ)、サハラには固有の文字を持つ民族、トゥアレグ(ティフィナグ文字/サハラ・サヘル西部)、アラブ(アラビア文字/北アフリカ・サハラ)、アムハラ(ゲエズ文字/エチオピア)、などが多数いるし、古代クシュ王国ではエジプトのヒエログリフ(神聖文字)から派生した独自のメロエ文字を使用していた。
サハラ以南でも固有の文字を持つ民族は、ヴァイ(シエラレオネ)、バムン(カメルーン)を始めいくつか存在するが大多数の民族は独自の文字を持たない(もっともサハラ以南のアフリカでそれらの文字が発明されたのはここ100〜200年の間ではあるが)。
とはいえ、中世の西スーダンの大帝国マリやソンガイ、ハウサ諸国のイスラム化した知識階級の人々はアラビア文字でアラビア語の文書を残したりもしているし(トンブクトゥの歴史学者アブドゥラマン=アッサディの著した「タリーク=エッスーダン/スーダン史」など)、フータ=ジャロンのフルベ人たちは自らの言語をアラビア文字で記したりもした。現在でもイスラムの盛んな地域ではマラブー(イスラムの導師)が子供達にクルアーンの読み書きを教えているが、そこにラテン文字やヨーロッパ言語到来以前の西アフリカの文字使用の状況が見てとれるかもしれない。
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| ・もじり編み |
バスケトリーの技法の一つ。経芯に対して緯芯をもじる(ねじる)ように交互に巻きつけていく編み方(このため経芯は緯芯に隠れて見えなくなる)。編み目が密になるため非常に頑丈なバスケタリーができる。立体感のある編み目が特徴的。
世界中で用いられている技法であり、西アフリカでは革で縁取りしたフルベの帽子、ガーナ北部ボルガタンガ地方でつくられるカラフルなもじり編みのかご、うちわなどが有名。
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・モノモタパ
王国 |
11C頃から15C頃にかけて現ジンバブウェを中心にザンビア、ボツワナ、南ア共和国、モザンビークの一部を領有し栄えてたショナ人の王国。
豊かな鉱産資源(金など)をもとにした交易により繁栄した。モノモタパ王国はインド洋岸の交易港ソファラ(現モザンビーク)を通してインド洋交易圏の一部として機能し、その遺跡からははるか東方の中国の陶器片なども見つかっている。
モノモタパ王国は後継のロズウィ王国とともにその壮大な石造建築で知られているが、モノモタパ王国期の石造建築は不整形の石材を用いてつくったものであった(例:マテンデレ遺跡)。
15C半ばにロズウィ王国に取って替わられた。
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| ・モプティ |
マリ共和国ニジェール河中流域の港町。ニジェール河と支流のバニ川との合流点に位置する。ニジェール河河川交通、水運の一大中継地。モプティからガオまでの河沿いにはまともな陸路がないため河川交通の重要性は高く、今日も人や荷物を満載した木造船が行き交っている。
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| ・木綿布 |
→布 |
| ・モーリシャス |
マダガスカルの東沖約800qに浮かぶ島々を領土とする島国。主島はモーリシャス島。
これらの島々は古くからインド洋の航海者にその存在を知られていたが16C末ごろまでは無人島であったと考えられている。
最初にオランダが、続いてフランス、イギリスが入植を試みその際に労働者として連れてこられたアフリカ黒人、インド人、中国人、ヨーロッパ系入植者の子孫などが主な住民である。
1810年以来イギリス領となっていたが1968年にモーリシャス共和国として独立を果たした。
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・モーリタ
ニア |
北西アフリカ、サハラが大西洋に接する地域に位置する国。南のセネガルとの国境に沿ってセネガル河が流れる。国土の大半はサハラ沙漠に覆われている。
古くからサハラ縦断交易の舞台となり様々な交易都市(ワラタ、アウダゴーストなど)、王国が勃興した。同国南東部のクンビ=サレー遺跡は古代ガーナ王国の都の遺構と考えられている。また同国北部内陸部のオアシス・シンゲッティはイスラム第七の聖都として知られている。
主な民族は北部を中心としてアラブ、ベルベル、南部を中心としてトゥクロール、ソニンケ、ウォロフなど
アラブ世界から伝わった高度な技術を生かした金属細工が盛ん。エボニーに金属象嵌を施した工芸品も多くつくられている。
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| ・モロッコ |
1956年に独立した北アフリカ西端に位置する王国。正式名称アル・マムラカ-アル・マグリビーヤ(マグレブ王国)。古来ベルベル、フェニキア、ローマ、アラブ、スペイン、ポルトガル、フランスなどの勢力が行き交い様々な王朝が勃興した。
11Cのムラービト朝はガーナ王国を、16Cのサード朝はソンガイ帝国を滅ぼすなどサハラ以南のアフリカとの歴史的関わりも深い。
1976年以来西サハラの領有をめぐってサハラ・アラブ民主共和国と係争中(現在はモロッコが実効支配中)。西サハラのアフリカ統一機構(OAU)加盟(OAUに抗議し1984年に同機構を脱退。OAUの後身であるアフリカ連合(AU)にも未加盟である。
住民の大半はアラブ人で山岳地帯などに先住のベルベル系民族が暮らしている。
豊かな工芸文化を持ち、じゅうたん、金属工芸などが盛んである。
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| ・モンバサ |
ケニア南部インド洋沿岸の港湾都市。モンバサ島と大陸部からなる。モンバサ港は現在東アフリカ最大の港として繁栄しているがその歴史は古く、11C以前までさかのぼることができる。
モンバサは11〜12C頃にインド洋交易の重要な貿易港としての地位を確立し始め、イブン=バットゥータが訪れた14Cには東アフリカ最大規模の港として栄えていた。16C初頭から19Cにサイイド=サイードが東アフリカ沿岸に一大海洋帝国を築くまでの間、モンバサはポルトガルの支配下に置かれていた。その後19C末にはイギリスの支配下に入り、1963年のケニア独立を経て現在に至る。
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