アザライは西アフリカを中心とした、アフリカの雑貨・ひょうたん・民芸品・美術品の専門店です
ホームアザライとは?ご利用ガイドお問い合わせ特定商取引法による表示義務事項リンク
home【アフリカ雑貨・民芸品:アザライ】

アフリカの木彫
アフリカのひょうたん
アフリカの布
アフリカのアクセサリー
アフリカの雑貨
国から探す
民族から探す/アフリカ関連用語集
*複数のカテゴリーに重複して掲載されている商品もあります

アフリカ関連用語集
アフリカ写真館

Home【アフリカ雑貨・民芸品:アザライ】
ご利用ガイド
お問い合わせ
特定商取引法による表示義務事項
準備中です


当ホームページ記載の写真、情報等の無断転用は固くお断りします

Copyright(C)2007
AZALAI All right reserved
アザライ
アフリカ雑貨・ひょうたん・民芸品・美術品専門店

アフリカ関連用語集

〜より充実した内容を目指し、随時更新していきます。〜

た行
斜体字は民族名です
A B C D
E F G H
I J K L
M N O P
Q R S T
U V W X
Y Z

 
・タカラガイ 子安貝
・タッシリ=
  ナジェール
アルジェリア南東部に位置する山岳地帯。サハラの岩壁画遺跡群の中でもっとも大規模かつ有名な遺跡である。タッシリはタマシェク(トゥアレグの言葉)で「水多き地」を意味し、アジェールはトゥアレグの氏族名である。20C初頭に岩壁画がフランス人によって「発見」され20C半ばのアンリ=ロートの調査によって世界中にその名を知られるようになった。

最も古い時代に描かれた「狩猟民の時代」の壁画から始まり「牛の時代」、「馬の時代」を経て「ラクダの時代」にいたるまでの壁画が山地に点在する。それぞれの時代の壁画の作者はそれぞれ黒人系民族、フルベかフルベの祖先、馬とラクダの時代の作者はトゥアレグかトゥアレグの祖先と考えられている。

トゥアレグの伝承に昔タッシリのトゥアレグはティン=ヒナンという女王を戴いていたが、その女王の時代にタッシリから西のホガール山地に移住した、という伝承がある。ホガール山地西部のアバレッサというオアシスで発掘された4Cの宮殿の遺構が、このティン=ヒナン女王の宮殿跡と考えられている。


・経織 経織(たており)とは、緯織とは逆に経糸(たていと:の長辺方向に平行に織り込まれた糸。綜絖に取り付けられ、綜絖棒の運動によって杼口が開かれる)で緯糸(よこいと:布の長辺方向に垂直方向に織り込まれた糸。杼に取り付けられ、経糸に開いた杼口に通すことで布が織られていく)を覆うようにして織っていく布。布の模様は経糸で作られ、経縞模様を生み出す。

ガーナトーゴケンテ布は経織と緯織の技法を併用し独特の市松模様を作り出している。

アフリカの布


・ダホメー
     王国
17世紀初頭にアボメーを首都としてベナン南部に興ったフォン民族の王国。当初はアボメー王国と呼ばれていた。アマゾネス(女兵士)軍団に代表される強大な軍事力と奴隷貿易によって富み栄えた。詳しく読む>>

 
・タリーク=
 アル・
 ファッタシュ
トンブクトゥの学者(達)によりアラビア語で著された西スーダンの歴史書。書名は「知識を求める者の年代記」を意味する。アスキア=ムハンマドの廷臣であったムハンマド=カティにより16C前半に書き始められ、カティの子孫達により17C後半に完成されたと伝えられてきた。実際にはカティの孫のイブン=アル・モクタールがその大部分を1660年代に著述したと考えられている。

西スーダンの広範な歴史を記したこの歴史書はタリーク=エッスーダンと並び現在でも多くの研究に、アフリカ側からの貴重な資料として貢献している。


・タリーク=
エッスーダン
17C前半にトンブクトゥの学者アブドゥラマン=アッサディによってアラビア語で書かれた歴史書。アラビア語で「スーダン史」を意味する。モロッコ軍の侵攻によるソンガイ帝国崩壊を幼少期に経験したアッサディはソンガイ、マリガーナの栄光を記録するためにこの本を書き記したという。

ガーナ王国に始まる西スーダンの広範な歴史を記したこの歴史書はタリーク=アル・ファッタシュと並び現在でも多くの研究に、アフリカ側からの貴重な資料として貢献している。


・ダン コートジボアール西部、リベリア東部に居住するマンデ系言語を話す農耕民。ダンの作る仮面はおおむね写実的で静的な表情のものが多いが、時にドゴンの仮面を連想させるような極度に抽象化された仮面もつくる。

ダンの木彫の中で最も知られているのは「もてなしのスプーン」と呼ばれることもある大きな木製のスプーンで柄の部分に精巧な彫刻が施されている(人頭像、胸像など)。このスプーンは祭礼に集まった人々に食事を振舞う際に使われるという。 


・タンザニア 東アフリカの国。沿岸部はアラブやインドとの貿易によりスワヒリ文化が栄えた。内陸のサバンナにはマサイ等の遊牧民が暮らす。本土側(タンガニーカ)と島嶼部(ザンジバル)の連合共和国。
主な民族はスクマ、ニャムウェジ、マコンデなど
タンザニアの商品


 
・茶 意外に感じるかもしれないが緑茶(中国緑茶)は北アフリカから西アフリカ(特に内陸部)にかけて最も広く飲まれている飲み物のひとつである。小さなポットで茶葉を煮立て、そこにこれでもかというくらいの砂糖をいれ、ポットを高く掲げ小さなガラスのコップに注ぎ落とす。そうやって入れられた茶(アタイ・アタヤと呼ばれている)は上に泡の層ができる。この泡をいかにうまく立てるかというのが茶を入れる人(男の仕事)の腕の見せ所である。

緑茶は18、19C頃にマグレブ諸国経由でサハラサヘルに広まったといわれている。現在ではその地域の人々の暮らしに欠かせないものになり、特にトゥアレグ、アラブ、フルベなどの遊牧、牧畜民にとっては欠かすことのできないビタミン源ともなっている。砂糖をたっぷりと溶かし込んだお茶はそれだけでも結構なカロリーがあり、朝食を茶だけで済ませる人々もいる。

西アフリカではちょっと人が集まるとすぐに茶が始まる。茶飲み話といえば日本ではなんとなくおばさんたちのおしゃべりを連想するが、アフリカでは茶は主に男が楽しむものである。大体の場合一回のお茶会?で三杯の茶を飲むことになっていて、のんびりと茶を点てながらおしゃべりを楽しむ男たちの姿を目にする機会も多い。


・チャド 中部アフリカの内陸国。北部にはティベスティ、エネディなどの山岳地帯を含むサハラが広がり、南部はサバンナ気候帯に属する。チャド東部、ニジェールナイジェリアカメルーンと国境が接する地点にはアフリカ第四の大湖チャド湖が広がる。

主な民族は、サラ、ブームなど南部のバントゥー系諸民族フルベ、北部のアラブ、トゥブなど。

近年チャドの沙漠地帯で世界最古クラスの人類の化石が相次いで発掘されている。


・チャド湖 アフリカ大陸のほぼ中央に位置するアフリカ第4の大湖。チャドニジェールナイジェリアカメルーンの4カ国の国境をなし、シャリ川、コマドゥグ・ヨベ川などの流入する内陸水系を形成している。チャド湖の面積は雨季と乾季で拡大・縮小が激しく1万〜2万6千kuと変化する(現在地球温暖化の影響、周辺人口の増加などによりでチャド湖は急激に縮小しつつある)。

チャド湖周辺は古くから人類活動の舞台となり、古くはシャリ川流域にチャド文化が栄えた。9〜19Cにかけては周辺にカネム=ボルヌー帝国が栄え、サハラ縦断交易の拠点としても重要な地位を占めていた。

8000年ほど前、サハラが緑に覆われていたいわゆる「緑のサハラ」の時代にはチャド湖ははるか北のティベスティ山地付近まで拡大し推定面積40万ku以上の巨大な湖であった(現在の世界最大の湖カスピ海の面積37.4万ku、日本の面積37.8万kuと比較するとその大きさが理解できる)。


・チャド文化 サオ文化とも。南東方向よりチャド湖に流れ込むシャリ川下流域に栄えた文化。古くから人類活動の舞台となっていたこの地域では前5世紀にすでに鉄器の使用が始まっていたらしい。チャド文化の担い手であったサオ人は東方から移住してきたといわれ7C以前にはシャリ川下流域に住み着いていたと考えられている。

チャド文化遺跡からの出土品としては金属製品、ガラス、象牙製品などがあるがもっとも知られているのは人をかたどった粘土像である。仮面をつけた人物像と考えられている一群の粘土像はアフリカの仮面文化の貴重な資料となっている(仮面は木製のため古いものはあまり残っていない)。


13Cごろサオ人の住む地域はカネム=ボルヌー帝国の拡張に巻き込まれ、16Cごろまでにはチャド文化は消滅した。逃げ延びたサオ人達が現在のコトコ人の祖先になったと考えられている。


・チャパロ 西アフリカのサヘル、その南のサバナ地帯で作られているトウジンビエやソルガムなどの穀類を原料としたビール。ビールといっても濁りも多くところによってはかなり穀物の粉が残っていてどろりとしていることもある。苦味と酸味が強く、炭酸成分は少なく泡もあまり立たない。

発芽させた穀物を煮込み、その後自然発酵させてつくる。とはいうもののアルコール度数も低くあまり濾さないためチャパロは栄養価が高く、食事代わりに飲むこともあるという(女性や子供も飲める)。


・中央アフリ
 カ共和国
中部アフリカの内陸国。北部は半砂漠、南部は熱帯雨林だが国土の大半はサバンナに覆われている。名前の通りアフリカの中央部に位置しているため、過去に様々な民族移動の十字路となり、複雑な民族構成となっている。現在80以上の民族が居住する。

主な民族はバンダ、バヤ、マンジャ、アザンデ、ウバンギ、サラなど。南部森林地帯にはピグミーも居住している。

同国東部に居住するアザンデ、マングベトゥなどの民族は彫刻の名手として知られ、彼らのつくる、棹の部分に彫刻を施したハープはアフリカ美術の本に必ず載るほど有名である。


・チワラ アフリカの彫刻の中でおそらくもっとも有名な彫像。バンバラ民族の豊作祈願の祭礼時に、踊り手の頭上に取り付けられて使われる玲羊をかたどった彫像(→頭上面)。高く伸びた角、雄のチワラは様式化されたたてがみの見事な透かし彫り、メスのチワラは背中に子供を持ち、真鍮板で飾られた顔と胴を持つ。チワラクンとも呼ばれる。
チは農民、ワラはライオン、クンは頭をあらわす。
チワラは現在マリのシンボルとなっていて、各種の紋章などにもそのデザインが用いられている。(ちなみに今はなきエールアフリックのロゴもチワラだった。)
関連商品
アフリカの木彫 チワラ(雄・大) バンバラアフリカの木彫 チワラ(雌・小) バンバラアフリカの木彫 チワラ(雄・小) バンバラアフリカの木彫 チワラ(雌・小) バンバラアフリカの木彫 チワラ(変種・中) バンバラアフリカのいす 組み立ていす(ガグォ) バンバラアフリカのいす 組み立ていす(ガグォ) バンバラアフリカの仮面 チワラマスク バンバラアフリカの布 ボゴラン(中) バンバラ


 
 
・ティカール カメルーン北西部、グラスランドと呼ばれる高原地帯に居住し小規模な王国を形成した(する)民族。バントゥー系言語と近縁の言語を話す。仮面や彫像の作り手としても知られていて、ティカールのつくるピグミー像はピグミーの捕虜をあらわした物(ティカールの勢力がピグミーの居住地である森林地帯まで及んでいることを意味する威信財として)ともティカール自身の先祖像であるとも言われている。
関連商品
アフリカのいす ピグミー型いす ガボンアフリカの彫像 ピグミー像(小) ガボン


・鉄 西アフリカの鉄器文化の起源は現在でもよくわかっていないが、BC6〜5Cにかけての遺跡(ナイジェリア・ザリア地方のノク遺跡など)で鉄器使用の痕跡が見つかったことからその頃が西アフリカの鉄器文化の幕開けであろうといわれている。起源、伝播経路については諸説あり、エジプト・メロエ経由説、独自発見説などがあるがいまだ結論を得ていない。

西アフリカではヨーロッパ、アジアと違い鉄器文化が青銅器文化に先行していた(青銅器器文化の起源はAD9Cのイボ・ウクウ文化から大きく遡らないと思われる)。理由としては同地域で鉄が比較的容易に採集できたのに対し、銅鉱脈がない、または採掘しにくかったということが考えられる。事実有名なベニンの青銅彫刻も原料のほとんどをヨーロッパ(ポルトガル)からの輸入に頼っていたといわれている。

西アフリカの伝統的鉄器製造においてはふいご、炉の構造により炉の温度を十分に高められないため、鉄の鋳造はおこなわれず、鍛造のみであった。

また鉱石から鉄を精錬、加工し生活に必要不可欠な道具を作るという、素人から見ると魔術的といってもいいような技をもつ鍛冶師は西アフリカの多くの社会では特別な力を持つものとして畏怖されながらも忌避の対象となってきた(これは無文字社会において歴史を語るという技を持つグリオについても同じことである)。

西アフリカの職業カーストをもつ社会ではしばしば鍛冶師(男)は土器作り(女)と内婚集団を作っている。


・デュラ イスラム化したマンデ系民族(マリンケ?)の商人集団。ワンガラ、ウンガロスなどの名でアラブ、ヨーロッパの古い文献に登場する。ガーナ王国の昔からサハラ縦断交易におけるサハラ以南の主役として活躍してきた(デュラ人も一時サハラ越えに直接従事したこともあったがサハラ越えの主役はやはりベルベル、アラブ人たちだった)。

いち早くイスラム化し、イスラムの商習慣を身に着けた彼らはサハラ以南の西アフリカ内陸部に信用取引による広大な交易網を築き上げた。デュラ商人たちは西アフリカ内陸部の金、コーラの実などをサヘルの交易都市に運び、北からの商品すなわち、岩塩、銅、ガラス、馬などを西アフリカ内陸部に流通させた。

現在でも商人として活躍するものも多く、ハウサと並んでアフリカでも有数の商業民族として知られている。


 
・トゥアレグ サハラの青い貴族」の異名でも知られるトゥアレグは、ニジェールマリ・アルジェリアを中心に周辺諸国にも居住するベルベル系ラクダ遊牧民。青い衣をまとい、長剣を帯び、ラクダに乗り広大なサハラを闊歩する姿はまさに「サハラの青い民」の名にふさわしい。
トゥアレグはサハラの支配者として畏れらていた一方で、卓越した工芸技術の持ち主としても知られ、特に洗練された技巧とデザインをもつ銀細工は高い評価を受けている。貴族(トゥアレグの代名詞にもなっている青い衣を身に着けることができるのは本来この階級だけであった。)・戦士階級の下に黒人系の工人階級があり、トゥアレグの工芸品を作るのは主にこの集団である。
かつてはサハラの広大な範囲を支配下に置き、遊牧のほかに交易、キャラバンの保護、略奪などを行なっていた。現在は旱魃の影響、国による定住化政策等で定住生活に移行するものが増え、伝統的な遊牧生活を送るものは少なくなってきている。
トゥアレグ/Touaregとはアラブ人による他称(神に見捨てられた者の意)であり、自称は「Kel Tamachek」。タマシェクとはトゥアレグの言語でありティフィナグ文字という独自の文字を持つ。→さらに詳しい説明を見る>>

トゥアレグクロス関連地図<ニジェール><マリ>
トゥアレグ特集を見る>>
トゥアレグの商品


・トゥクロール 農耕民化したフルベ人の一派。セネガル河中・下流域を中心にセネガル北部からモーリタニア南部にかけて居住する。自称はハール・プラール(フルベ語を話す人の意味)。トゥクロールという呼称はフータ=トロの地にあった古代王国テクルールから来ている。

19C半ばにイスラム指導者エル=ハジ=ウマル=タールが率いたジハード(→フルベのジハード参照)によりトゥクロール帝国を築いた。

・トゥクロール
     帝国
セネガル北部、セネガル河中流域に住むフルベ語を話す農耕民トゥクロール人は自称ハール・プラール(フルベ語を話す人の意味)であり、フルベと近縁関係にあると考えられている。18C末に生まれたトゥクロールのイスラム指導者エル=ハジ=ウマルはメッカに巡礼中にスーダンのカリフの称号を授けらた。メッカから帰国したウマルは1854年にジハードを宣言。当時セネガル河をさかのぼり内陸に勢力を拡大していたフランス軍と衝突するが敗走。以後ジハードの対象を内陸に向け1854年カアルタ王国占領、61年セグー王国占領、62年マシーナ王国占領、63年トンブクトゥ占領と破竹の勢いで支配を拡大、セネガル河中流域からニジェール河中流域に及ぶ大帝国を樹立した。しかし1864年のウマルの死後、支配下の諸民族の反乱が相次ぎ1890年にはフランス軍が首都セグーに入城し、トゥクロー帝国は滅亡した。エル=ハジ=ウマルが支配下の諸民族(バンバラなど)を強制的にイスラムに改宗させたことにより西スーダンのイスラム化が進んだ。
マリの地図を見る>>

・トゥブ テダ、またはダザとも。チャド北部ティベスティやエネディの山岳地帯を中心にニジェール東部、リビア南部などに居住するラクダ遊牧民。コーカソイド的な外見と黒い肌を持ち、言語系統も不明なためトゥブの起源は謎に包まれている。一説にはヘロドトスの記述した「穴居エチオピア人」の子孫だとも、また別の説では、7〜9C頃ナイル河地方からやってきたコーカソイド系遊牧民の一群がでカネム帝国の建国にかかわった後、チャド北部のサハラ沙漠に移動しトゥブの先祖となったとも言われている。

非常に精悍かつ好戦的でフランス軍による植民地化にも激しく抵抗、独立後のチャド中央政府などとしばしば対立している。トゥブの住む地域の地形、気候の激しさなどもあり、いまだにこの地域を完全に掌握した国家権力はない。


・トーゴ 西アフリカギニア湾に面した国。南北約600km、東西約80kmの細長い国。北部はサバンナ気候、南部は熱帯である。
主な民族は南部のエウェミナ、北部のカブレなど。
トーゴの商品

トーゴの写真を見る>>

・ドゴン マリ中部バンジャガラ地方に居住する農耕民族。その壮大な神話体系、極度に抽象化された直線的な仮面、独創的な彫刻、仮面を用いた独特の儀式等で、世界的に有名な民族。ブラックアフリカ諸民族の中で最もアフリカらしい、宗教、習慣、美術を伝えている民族と評されることもある。
アフリカの彫刻といえばドゴンの彫刻を思い浮かべる人も多い。
関連商品
アフリカのいす 人頭つきいす ドゴンアフリカのいす 人型いす


・泥染め ボゴランとも呼ばれアフリカのの中でも特に有名な染め布のひとつ。植物の葉からとった染料で下染めをしてから鉄分を含む泥で文様を描く。泥染めで用いられる色は黒、茶系統の色であり、それらの色を使って主に幾何文様を描き出すが、セヌフォの作るコロゴ布のように絵画的な模様を描く場合もある。

泥染め布は西アフリカのマリブルキナファソコートジボアールなどで広くつくられているが、中でもバンバラのボゴランはよく知られている。

アフリカの布特集を見る>>
アフリカの染め布

・トンブクトゥ マリ共和国ニジェール河大湾曲地帯(ニジェール河が北に大きく張り出して流れている地域)の北端に位置する交易都市。おそらく西アフリカでもっとも有名な街であり、サハラ縦断交易によって栄え、その繁栄は「黄金の都トンブクトゥ」として遠くヨーロッパにまで鳴り響いた。

おそらく今から800年ほど前にトゥアレグのキャンプ地としてつくられたと考えられている。その後マリ帝国の時代、ガーナ王国時代には西にあったサハラ縦断交易ルートが東に移ったことによりサハラ縦断交易の一大中継地として繁栄し始めた。サハラの北から運ばれてきた品物はここからニジェール河の船でアフリカ各地に運ばれていき、アフリカ各地の産品はニジェール河の水運を利用し、まずトンブクトゥに集められてからサハラを越え北に向かった。河の港と沙漠の港を持つトンブクトゥは「砂と水の出会う場所」としてサハラ交易の一大拠点として発展していった。

マリのマンサ=-カンカン=ムーサ皇帝がメッカ巡礼の際連れ帰ったアラブの学者、宗教指導者を連れ帰って後はさらに西、中央スーダンの学問、イスラームの中心地としても栄えいくつもの大学やモスクが立ち並んでいたという。その後ソンガイ帝国の統治下、帝国がその広大な領土をよく統治し、サハラ縦断交易ルートの安全を確保したことにより、トンブクトゥは空前の繁栄を迎えることになる。モロッコ軍の侵攻によるソンガイ帝国滅亡の後はトンブクトゥの地位は低下し、以後衰退の道を辿り続けていたが、現在ではマリ共和国屈指の観光地となっている。

その名声からよく誤解されるが、トンブクトゥはその歴史を通して一度も一国の首都になったことはない。マリ帝国の首都ははるか西方の現ギニア領にあり、ソンガイ帝国の首都はトンブクトゥの東、ガオに定められていた。「黄金の都トンブクトゥ」の名はヨーロッパ人の欲望と好奇心を駆り立て18,9Cには多くのヨーロッパ人探検家がトンブクトゥ到達を目指したが、運良くトンブクトゥまで生きてたどり着いた者が見たものは黄金の都ではなく泥で作られた質素な家が立ち並ぶ寂れた街だったという。

トンブクトゥ(ティンブクトゥ)の名の由来は、あるとき洪水を防ぐためにブクトゥという名の娘を人柱として井戸に沈めたという伝承に求められる。トンブクトゥ(ティンブクトゥ)とは「美しいブクトゥ」または「ブクトゥの井戸」という意味と言われ、現在もブクトゥを人柱として捧げたという井戸が博物館内に残されている。

現在英語の辞書でトンブクトゥ/Tombuctou or Timbuktuと引くと「マリ共和国中部の地方都市。地の果てほど遠い場所のたとえ。」というような説明がされている。
マリの地図を見る>>

・トンボ玉 ビーズ/トンボ玉
内容に誤りがあるのを見つけましたらご一報くだされば幸いです。

<<HOMEへ戻る
                        
アザライ:アフリカ雑貨・ひょうたん・民芸品・美術品専門店